LOGIN病院から退院して一週間が経った。湊は表面上、いつも通りに働いた。
しかし、体は明らかに以前とは違っていた。
一日の疲れが出るからか、夜になると微かな熱がぶり返し、眠りも浅くなる。朝起きても疲労は抜けず、鏡に映る自分の顔色は以前より明らかに青白い。
(――大丈夫。仕事だけはちゃんとしないと)
欠陥オメガの体が99.9%の影響を静かに、しかし確実に受け始めていた。
そして、その影響は仕事にもはっきりと表れ始めた。
午前中のことだった。
智臣に提出する重要な契約書類をまとめ、資料をデスクから持ち上げようとした瞬間、手元がふらりと滑った。
一枚だけ書類が落ちたので、拾い上げようと腰を上げた瞬間。
——ばさっ。厚い書類の束が床に散らばる。
「あ……!」
慌てて拾い集めながら青ざめる。一部のページが折れ、順番も狂ってしまった。重要な数字が書かれたページが、床に散乱してしまう。
「す、すみません……すぐに直します!」
智臣は無言でそれを見下ろしていた。表情は変わらないが、以前なら「大丈夫か?」と一言かけてくれたかもしれない。
今はただ、静かに「……落ち着いてやれ」とだけ告げた。
昼過ぎにもミスは起きた。海外取引先への緊急メールに、数字を一つ間違えて送信してしまった。
井上さんに指摘され、俺は慌てて訂正メールを送信した。幸い、大きな損失にはならなかったものの、取引先へ余計な混乱を招いてしまったことに変わりはない。
「……申し訳ありません」
肩を落として頭を下げると、井上さんはため息をつくこともなく、穏やかな表情で俺を見つめた。
「九条くん」
「はい」 「今日は、顔色が良くないね」不意にそう言われ、思わず頬に触れた。
「そんなこと……」
「あるよ」井上さんは少しだけ眉を寄せる。
「病院を退院して、まだ日も浅い。無理をしていないかい?」
図星だった。夜になると熱っぽくなることも、朝になっても疲れが抜けないことも、本当は誰にも話していない。
でも――。
「大丈夫です」
俺は無理に笑みを作った。
「これ以上、ご迷惑はかけられませんから」
その言葉に、井上さんは一瞬だけ言葉を失った。社長が距離を置いている理由も、この体に起きている変化も、自分はすべて知っているからこそ、何も言えなかった。
(――違うんだ、九条くん。君は迷惑なんかじゃない。社長は、君を守ろうとしているだけなんだ)
心の中でそう呟きながらも、その言葉は決して口にはできなかった。
「九条くん、無理だけはしないこと。それだけは約束してくれるかな」
俺は静かに頷いた。
「……はい」
執務室にある自分のデスクに戻り、一人になった瞬間、湊はデスクに突っ伏した。
(……どうして、こんなに失敗ばかりなんだ)
体が重い。頭がぼんやりする。集中しようとすればするほど、熱が微かにぶり返して思考が散漫になる。
欠陥オメガの自分が智臣の側にいる資格など、本当はないのかもしれない。
倒れたことも、迷惑をかけたことも、そして今、仕事で足を引っ張っていることも——全部が、自分の無力さを突きつけてくる。
(やっぱり……距離を置かれているのも当然だ)
病院で倒れてから、社長は一度も俺に触れようとしない。車も、会議も、食事も、すべて距離を置かれた。
あの日、一晩付き添ってくれたのは、社長としての責任だったんだ。俺が勘違いしてはいけない。
あの病院での出来事以来、智臣の中で自分の評価は地に落ちたのだろう。
落ち込む。また失敗する。さらに落ち込む。その負のループが静かに蝕んでいった。
夕方18時半。智臣が執務室から出てくるのを見かけたので、慌てて立ち上がって頭を下げた。
「社長、今日も……申し訳ありませんでした」
智臣は一瞬、足を止めた。しかし、何も言わずにそのまま歩き去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、小さく拳を握りしめた。
胸が痛い。自分はただの迷惑な存在でしかないのだと思い知らされる日々が、静かに続いていく。
***
その日の午後、役員会議室には重い空気が流れていた。議題が一通り終わったところで、一人の常務取締役が口を開く。
「社長、一つご相談があります」
智臣は資料から目を離さないまま答えた。
「どうぞ」
「九条くんの件です」部屋の空気がわずかに張り詰めた。議事録を取っていた俺は、思わずペンを持つ手に力が入る。
「最近、ミスが目立っています。契約書の取り違え、メールの誤送信、資料の順番違い……。能力は認めていますが、このまま社長秘書を続けさせるのは、会社にとってリスクではないでしょうか」
別の役員も頷く。
「社長秘書は会社の顔です。一度配置転換を検討されてもよいのでは」
「適材適所というものがあります」静かな同調が会議室に広がる。
俺は俯いた。
(……やっぱり)
そう思われても仕方がない。最近の自分は、失敗ばかりだった。
その時、智臣が静かに資料を閉じた。
「皆さんの懸念は理解しました」
低く落ち着いた声が響く。
「確かに、九条は最近ミスが続いています」
胸が締めつけられた。しかし智臣は、そのまま淡々と言葉を続ける。
「ですが、それ以上に彼が会社へもたらした成果も事実です」
役員たちが顔を上げた。
「海外支社との契約交渉では通訳として尽力し、共同研究契約の資料も彼が中心となってまとめました。欧州支社との調整も、彼でなければあれほど円滑には進まなかったでしょう」
静まり返った会議室に、智臣の声だけが響く。
「人は誰でも体調を崩します。一時の不調だけを見て、その能力まで否定するつもりはありません」
誰も反論しない。智臣は役員たちを静かに見渡し、最後にはっきりと言った。
「九条は、私の秘書です」
その一言で、会議室は完全に静まり返った。
会議はそのまま終了し、役員たちは三々五々部屋を出ていく。俺は議事録を整理し終え、人数分の資料を抱えて先に廊下へ出た。
忘れ物に気づいて踵を返し、会議室の前まで戻った、その時だった。閉まりきっていないドアの隙間から、智臣の声だけが聞こえてきた。
「――九条は、私の秘書です」
思わず足が止まる。その前にどんな話が交わされていたのかは分からない。
聞こえたのは、その一言だけだった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
(……社長)
最近は距離を置かれ、視線も合わせてもらえず、嫌われたのだと思い込んでいた。
それなのに役員たちの前で、社長ははっきりと「私の秘書」と言ってくれた。
目頭が熱くなる。
嬉しい。
その一言だけで、張りつめていた心が少しだけほどけていく。
(……社長は、俺を見捨てていなかった)
そう思っただけで、涙がこぼれそうになった。
慌てて目元を拭い、誰にも気づかれないよう静かにその場を離れた。
会議室のドアが閉まり、役員たちの姿が見えなくなる。
井上は静かに智臣へ視線を向けた。
「……よろしかったのですか」
智臣は書類を閉じ、淡々と答える。
「事実を話したまでだ」
「ですが、『私の秘書です』と、あそこまで明言されたのは初めてですね」
智臣は一瞬だけ沈黙した。眼鏡の奥の視線が、閉じられたドアへ向けられる。
「二度と言わせるな」
低く短い言葉だった。
井上はその意味を理解し、小さく苦笑する。
「承知しました」
(社長……その一言が、一番効くんですよ)
心の中でだけ呟き、井上も静かに会議室を後にした。
その日の仕事が終わったのは、19時半を過ぎた頃だった。 重い身体を引きずるように会社ビルを出る。微熱と倦怠感は、まだ残っていた。 首筋の疼きも、夕方から少しずつ強くなっている。(早く帰って休もう……) そう思いながら駅へ向かって歩き出した、その時だった。 会社の正面玄関前に、一台の黒塗りの高級車が静かに停まっていた。 見覚えのある車だったことに、胸の奥がざわつく。 まさか――。 後部座席のドアが、ゆっくりと開く。降りてきたのは、長兄・九条蓮だった。 端正な顔立ちに、相変わらず感情の読めない笑みを浮かべている。「久しぶりだな、湊」 その一言だけで、全身の血の気が引いた。 逃げなければ――そう思うのに、足が動かない。 兄さんは呆然と立ち尽くす俺を見つめたまま、車へ向かって静かに頭を下げた。「父上」 その呼びかけだけで、心臓が一瞬で凍りつく。 九条家の当主である父・怜司が、ゆったりとした動作で車から降りてきた。父は穏やかな笑顔を浮かべながら、俺を見つめた。「元気そうじゃないか、湊」 俺は完全に固まってしまった。指先が冷たくなり、書類鞄を持つ手が震える。喉が塞がったように声が出ない。 数ヶ月ぶりに見る父と兄の顔が、悪夢のように現実味を帯びて迫ってくる。(……どうして) ここにいるはずがない。勘当されたはずの自分が、九条家の人たちに会うはずがない。 しかし現実は、冷たく目の前に立ちはだかっていた。 父が一歩近づき、優しい——しかし底冷えのする声で言った。「少し、話がしたいんだが……いいだろう?」 俺は一歩も動けなかった。逃げたいのに、身体は熱に縫い止められたように動かない。 九条家はついに、俺の前に姿を現した。 湊を見送るため、エントランスの窓際から、智臣は静かに外を見ていた。 夕暮れの薄闇の中、一台の黒塗りの高級車が会社の正面玄関前へ滑るように停まる。後部座席のドアが開き、降り立った人物を確認した瞬間、智臣の瞳が細められた。「……来たか」 低い声がその場に落ちる。智臣は片手で窓ガラスに触れ、冷たい表面に指を這わせた。 眼鏡の奥の視線は鋭く、玄関前に立つ三人の姿を捉えている。 九条怜司と九条蓮。そして、その前で立ち尽くす湊。 智臣はゆっくりと拳を握る。胸の奥が、異様にざわつく。理由は分からない。ただ一つだけ
朝の執務室は、いつもより重い空気に包まれていた。 智臣がデスクで書類に目を通していると、ノックもそこそこに井上が入室する。彼の表情は普段より硬く、声もわずかに緊張しているのが目についた。「社長……九条家のご当主とご長男がお見えです」 智臣の指が、書類の端で止まった。一瞬の沈黙の後、彼は静かに立ち上がった。(――とうとう来たか) 内心でそう呟きながら、智臣の瞳は冷たい光を帯びた。 井上は心配そうに続けた。「応接室にご案内していますが……どうされますか?」「会う」 智臣は短く答え、ジャケットの襟を整えた。 九条家がついに動き出した——仕組まれた運命の、最初の本格的な衝突が。 応接室の重厚な扉が開くと、そこには二人の男が待っていた。 九条 怜司——湊の父であり、九条家の当主。端正な顔立ちに冷たい微笑みを浮かべ、ゆったりとソファに腰を下ろしている。その隣には長男の蓮が、恭しく控えていた。 智臣は静かに部屋に入り、向かいのソファに座った。表面上は、両者とも穏やかな笑みを浮かべている。しかし、部屋に流れる空気は張りつめ、目に見えない刃が交錯した。 そんな緊張感が漂う中、怜司が先に口を開いた。「突然お邪魔して申し訳ありません、一ノ瀬社長。湊の様子を見に来ました」 智臣は落ち着いた声で返す。「秘書として問題なく勤務しています。ご心配には及びません」 怜司の笑みが、少し深くなった。「親として心配でしてね。勘当したとはいえ、血を分けた息子ですから」 智臣の瞳が、わずかに細まる。「勘当されたのでは? 親としての権利は、すでに放棄されたものと理解していますが」 一瞬、応接室の空気が凍りついた。怜司は笑顔のまま、静かに口を開く。「血は争えません。湊が一ノ瀬グループでどれだけ貢献できているか、確認したく思いまして」 智臣は表情を変えずに、淡々と答えた。「九条湊は優秀な秘書です」 怜司の目が、わずかに鋭くなった。「優秀ですか。湊もようやく、社会人として落ち着いてきたようですね」「彼は私にとって、必要な人材です」「それは結構なことです」 智臣の指が、膝の上でわずかに動いた。二人の視線が、正面からぶつかり合う。 怜司は優雅に微笑みながら、しかし底冷えのする声で言った。「親として、息子の幸せを願うのは当然のことでしょう?」 智臣は静
*** その夜、湊はアパートのベッドで目を覚ました。 時計の針は午前二時を指している。部屋は暗く、ただカーテンの隙間から入る街灯の光だけが、ぼんやりと床を照らしていた。 身体が、やけに熱かった。額に浮かぶ汗を拭おうと手を上げた瞬間、首筋に鋭い疼きが走った。 まるでそこに熱い鉄を押し当てられたような、甘く苦しい感覚。下腹部にも、じんわりと疼きが広がっていく。 息を荒くしながら上半身を起こし、ベッドの端に座った。 シーツが、甘い香りで満ちていた。自分の体から発せられる、濃厚で柔らかいフェロモンの匂い。 これまでほとんど感じなかったものが、今ははっきりとわかるほど強くなっている。「……っ」 自分の首筋に手を当て、震える息を吐いた。(違う……そんなはずない) 欠陥オメガの自分に、本格的なヒートなんて起こるはずがない。 そう思おうとするのに、首筋の疼きも身体を満たす熱も、それを許してくれなかった。 熱が引かない――胸の奥がざわつき、頭がぼんやりとして、思考がまとまらない。 夜ごと繰り返されるこの症状は、もう「風邪」などという生易しいものではなかった。 初めて、自分の異変を正面から認めた。「俺……やっぱり、おかしいかもしれない」 掠れた声が、暗い部屋に小さく落ちた。 欠陥オメガの自分が、まさか本格的なヒートを迎えようとしているなんて。それも、一ノ瀬智臣という運命の番の影響で。 膝を抱え込み、額を膝の上に押し付けた。智臣の顔が、脳裏に浮かぶ。 冷たい視線。距離を置く後ろ姿。それでも、定食屋で向かい合って食べた夕食。初めて名前を呼ばれた夜――あの一瞬だけ見せてくれた優しさ。(……もう、社長の傍にいちゃいけないのかもしれない) 自分の体が、智臣の存在に反応して熱を発している。このまま傍にいれば、きっと迷惑をかける。もっと、もっと大きな負担を。 そんなことを考えながら、唇を強く噛んだ。目頭が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを必死に堪える。 夜の静けさの中で、初めて自分の体が「抗えない熱」に飲み込まれ始めていることを、はっきりと自覚した。(――社長から離れなきゃ) その思いだけが、熱に浮かされた頭の中で静かに形を成していく。それが自分にも、社長にも一番いい選択なのだと信じながら。*** 翌朝。熱は少し下がっていた。夜中はあれほど苦
あれから一週間が経った。俺の体調は、明らかに悪化の兆しを見せ始めていた。 夜だけだった熱が、昼間にも微かにぶり返すようになった。朝起きた時点で既に体温が少し高く、午後になると額や首筋がじんわりと熱を持つ。 フェロモンの香りも、抑えきれなくなっていた。 抑制剤を多めに飲んでも、甘く柔らかい匂いが時折ふわりと周囲に漂う。 それでも、自分に言い聞かせていた。(……これはただの風邪、季節の変わり目で体調を崩しただけだ) そう思い込むことで、現実から目を逸らしていた。 会社では、その異変が誰の目にも明らかになり始めていた。 午前中、コピー機の前で資料を待っている最中、突然立ちくらみが襲ってきた。視界がぐらりと揺れたことで、慌てて機械に手をつく。足元がふらつき、膝に力が入らない。「九条くん、大丈夫?」 近くにいた女性社員が、心配そうに声をかけてきた。「……はい、大丈夫です。ちょっと貧血気味みたいで」 無理に笑顔を作って誤魔化した。 午後には階段でふらついた。二階から三階へ上がる途中で足がもつれ、危うく転びかけた。抱えていた書類が数枚、階段に散らばる。 通りかかった男性社員が慌てて拾ってくれたが、明らかに心配そうな顔をしていた。「顔色悪いよ? 本当に大丈夫?」「ありがとうございます。少し寝不足で……」 また笑って誤魔化す。その笑顔は以前より明らかに無理をしているのが、傍から見てわかってしまうだろう。 夕方近く、また書類を落とした。智臣に提出する重要な報告書の束が、デスクの上で滑り落ち、床に散乱する。拾い集めながら、唇を強く噛んだ。(……どうして、最近こんなに調子が悪いんだろう) 熱は微熱なのに、身体が重い。集中力も続かず、ちょっとした動作でふらつく。そして、体から漂う甘い香りを、自分でもはっきりと感じるようになった。 欠陥オメガの自分が本格的なヒートに近づいているなど、まだ考えたくもなかった。 床に散らばった書類を拾い集めながら、小さく笑った。「……まだ、大丈夫」 誰に言うでもない、掠れた独り言。その言葉は、自分自身を安心させるための呪文。けれど、その声にはもう力がなかった。*** 執務室のガラス越しに、その姿を見つめる男がいた。智臣は手にしていたペンをゆっくりと置き、静かに目を伏せる。 また、ふらついた。今日だけで三度目だ
*** その日の午後、重要書類を智臣に届けるため、役員フロアへ向かっていた。 廊下の角を曲がろうとした、その時だった。役員たちの話し声が聞こえ、思わず足を止める。 壁越しに聞こえてきたのは、智臣の声だった。壁に貼りつくように体をくっつけながら、そっと覗き見る。「社長、どうして九条を外さないのです?」 常務の一人が、不満を隠そうともせず問いかける。「最近のミスは目に余ります。このままでは会社の信用にも関わる」 その場にいる他の役員たちも小さく頷いていた。 俺は書類を抱えたまま、その場で息を潜める。(……社長) 胸が嫌な音を立てたとき、智臣は少しだけ間を置いて答えた。「99.9%だからだ」 静かな一言だった。その言葉だけで、役員たちが黙る。 智臣は表情一つ変えずに続けた。「現時点で彼を外す理由はない」「99.9%の適合データは、今後の経営判断にも影響する。軽々しく動かす案件ではない」 役員たちは互いに顔を見合わせる。「なるほど……そういう判断ですか」「理解しました」 それ以上、反論は出なかった。 話題は別の案件へ移っていく。 しかし、俺の耳には――『99.9%だからだ』 その一言だけが、何度も何度も反響していた。(……やっぱり) 胸の奥が、音を立てて冷えていく。 社長が自分を傍に置いてくれているのは、俺だからじゃない。99.9%という数字だから。 病院で助けてくれたことも。定食屋で食事に誘ってくれたことも。名前を呼んでくれたことも。 全部――運命の番だから。 それ以上の意味なんて、なかった。(……俺は) ただの九条湊じゃない。99.9%という数字のついた、"適合データ"でしかなかったんだ。 書類を抱える指先が震え、目頭が熱くなった。 泣くわけにはいかない。それでも、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。*** その夜、俺はアパートのベッドに座ったまま、膝を抱えていた。 部屋は暗く、街灯の光だけがカーテンの隙間から差し込んでいる。 今日、廊下で耳にした智臣の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返されていた。『99.9%だからだ』 たった一言、それだけで十分だった。 告げられたセリフを思い出し、小さく息を吐きながら力なく笑う。 それは、自分を納得させるための笑みだった。(……そうだよね) 社長が俺を
退院から二週間が経過した頃、湊の体に再び異変が訪れ始めた。 昼間は、なんとか平常を装えていた。 仕事中は集中力を振り絞り、一つでも失敗を減らそうと必死だった。以前のように迷惑をかけたくない。その思いだけで、どうにか一日を乗り切っている。 しかし、夜になると決まって高熱がぶり返すようになった。 アパートの狭い部屋でベッドに横になると、じんわりと体温が上がっていく。 首筋や胸の奥が熱を持ち、微かな疼きが波のように押し寄せては、静かに引いていく。 フェロモンの香りも、以前より明らかに濃くなっていた。 枕やシーツに移った甘い香りに気づくたび、小さく眉を寄せる。「……こんな匂い、前はしなかったのに」 ぽつりと零した声は、静かな部屋に吸い込まれていった。 布団を抱き寄せ、額の汗を手の甲で拭う。(……まだ大丈夫) そう、自分に言い聞かせる。 病院では「過労とストレス」だと言われた。 だから、これは疲れが抜け切っていないだけ。少し休めば、また元に戻る。 そう信じたかった。 欠陥オメガの自分が、本格的なヒートを迎えるなど、考えたくもない。 考えた瞬間、それが現実になってしまう気がした。 夜だけ熱が出る。朝になれば、不思議なくらい何事もなかったように熱は引く。だから、仕事は続けられる。まだ、大丈夫――そう思い込もうとしていた。 けれど、体は正直だった。 智臣のことを思い浮かべるだけで、胸の奥が小さくざわめく。 あの定食屋で向かい合って食べた夕食。「無理をするな」と静かに告げられた声。 そして、帰り際に初めて呼ばれた自分の名前。『……湊』 その一言を思い出しただけで、胸の奥に熱が灯る。鼓動が少しだけ速くなり、首筋にじんわりと熱が集まっていく。(違う……) これは病気のせいだ。社長のことを考えたからじゃない。 そう否定すればするほど、熱はゆっくりと全身へ広がっていく。 布団の中で膝を抱え、小さく息を吐いた。「……まだ、大丈夫」 誰に聞かせるでもない、小さな独り言。 それは自分を安心させるための言葉ではなく、崩れそうになる心をどうにか繋ぎ止めるための、儚い呪文だった。 その後の智臣の態度は、ますます冷たく、徹底したものになっていった。 朝の送迎は、完全に取りやめになった。 以前は同じ車で会社へ向かうこともあったが、今で