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第四章 仕組まれた運命

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-09-06 15:35:11

 病院から退院して一週間が経った。湊は表面上、いつも通りに働いた。

 しかし、体は明らかに以前とは違っていた。

 一日の疲れが出るからか、夜になると微かな熱がぶり返し、眠りも浅くなる。朝起きても疲労は抜けず、鏡に映る自分の顔色は以前より明らかに青白い。

(――大丈夫。仕事だけはちゃんとしないと)

 欠陥オメガの体が99.9%の影響を静かに、しかし確実に受け始めていた。

 そして、その影響は仕事にもはっきりと表れ始めた。

 午前中のことだった。

 智臣に提出する重要な契約書類をまとめ、資料をデスクから持ち上げようとした瞬間、手元がふらりと滑った。

 一枚だけ書類が落ちたので、拾い上げようと腰を上げた瞬間。

 ——ばさっ。

 厚い書類の束が床に散らばる。

「あ……!」

 慌てて拾い集めながら青ざめる。一部のページが折れ、順番も狂ってしまった。重要な数字が書かれたページが、床に散乱してしまう。

「す、すみません……すぐに直します!」

 智臣は無言でそれを見下ろしていた。表情は変わらないが、以前なら「大丈夫か?」と一言かけてくれたかもしれない。

 今はただ、静かに「……落ち着いてやれ」とだけ告げた。

 昼過ぎにもミスは起きた。海外取引先への緊急メールに、数字を一つ間違えて送信してしまった。

 井上さんに指摘され、俺は慌てて訂正メールを送信した。幸い、大きな損失にはならなかったものの、取引先へ余計な混乱を招いてしまったことに変わりはない。

「……申し訳ありません」

 肩を落として頭を下げると、井上さんはため息をつくこともなく、穏やかな表情で俺を見つめた。

「九条くん」

「はい」

「今日は、顔色が良くないね」

 不意にそう言われ、思わず頬に触れた。

「そんなこと……」

「あるよ」

 井上さんは少しだけ眉を寄せる。

「病院を退院して、まだ日も浅い。無理をしていないかい?」

 図星だった。夜になると熱っぽくなることも、朝になっても疲れが抜けないことも、本当は誰にも話していない。

 でも――。

「大丈夫です」

 俺は無理に笑みを作った。

「これ以上、ご迷惑はかけられませんから」

 その言葉に、井上さんは一瞬だけ言葉を失った。社長が距離を置いている理由も、この体に起きている変化も、自分はすべて知っているからこそ、何も言えなかった。

(――違うんだ、九条くん。君は迷惑なんかじゃない。社長は、君を守ろうとしているだけなんだ)

 心の中でそう呟きながらも、その言葉は決して口にはできなかった。

「九条くん、無理だけはしないこと。それだけは約束してくれるかな」

 俺は静かに頷いた。

「……はい」

 執務室にある自分のデスクに戻り、一人になった瞬間、湊はデスクに突っ伏した。

(……どうして、こんなに失敗ばかりなんだ)

 体が重い。頭がぼんやりする。集中しようとすればするほど、熱が微かにぶり返して思考が散漫になる。

 欠陥オメガの自分が智臣の側にいる資格など、本当はないのかもしれない。

 倒れたことも、迷惑をかけたことも、そして今、仕事で足を引っ張っていることも——全部が、自分の無力さを突きつけてくる。

(やっぱり……距離を置かれているのも当然だ)

 病院で倒れてから、社長は一度も俺に触れようとしない。車も、会議も、食事も、すべて距離を置かれた。

 あの日、一晩付き添ってくれたのは、社長としての責任だったんだ。俺が勘違いしてはいけない。

 あの病院での出来事以来、智臣の中で自分の評価は地に落ちたのだろう。

 落ち込む。また失敗する。さらに落ち込む。その負のループが静かに蝕んでいった。

 夕方18時半。智臣が執務室から出てくるのを見かけたので、慌てて立ち上がって頭を下げた。

「社長、今日も……申し訳ありませんでした」

 智臣は一瞬、足を止めた。しかし、何も言わずにそのまま歩き去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、小さく拳を握りしめた。

 胸が痛い。自分はただの迷惑な存在でしかないのだと思い知らされる日々が、静かに続いていく。

***

 その日の午後、役員会議室には重い空気が流れていた。議題が一通り終わったところで、一人の常務取締役が口を開く。

「社長、一つご相談があります」

 智臣は資料から目を離さないまま答えた。

「どうぞ」

「九条くんの件です」

 部屋の空気がわずかに張り詰めた。議事録を取っていた俺は、思わずペンを持つ手に力が入る。

「最近、ミスが目立っています。契約書の取り違え、メールの誤送信、資料の順番違い……。能力は認めていますが、このまま社長秘書を続けさせるのは、会社にとってリスクではないでしょうか」

 別の役員も頷く。

「社長秘書は会社の顔です。一度配置転換を検討されてもよいのでは」

「適材適所というものがあります」

 静かな同調が会議室に広がる。

 俺は俯いた。

(……やっぱり)

 そう思われても仕方がない。最近の自分は、失敗ばかりだった。

 その時、智臣が静かに資料を閉じた。

「皆さんの懸念は理解しました」

 低く落ち着いた声が響く。

「確かに、九条は最近ミスが続いています」

 胸が締めつけられた。しかし智臣は、そのまま淡々と言葉を続ける。

「ですが、それ以上に彼が会社へもたらした成果も事実です」

 役員たちが顔を上げた。

「海外支社との契約交渉では通訳として尽力し、共同研究契約の資料も彼が中心となってまとめました。欧州支社との調整も、彼でなければあれほど円滑には進まなかったでしょう」

 静まり返った会議室に、智臣の声だけが響く。

「人は誰でも体調を崩します。一時の不調だけを見て、その能力まで否定するつもりはありません」

 誰も反論しない。智臣は役員たちを静かに見渡し、最後にはっきりと言った。

「九条は、私の秘書です」

 その一言で、会議室は完全に静まり返った。

 会議はそのまま終了し、役員たちは三々五々部屋を出ていく。俺は議事録を整理し終え、人数分の資料を抱えて先に廊下へ出た。

 忘れ物に気づいて踵を返し、会議室の前まで戻った、その時だった。閉まりきっていないドアの隙間から、智臣の声だけが聞こえてきた。

「――九条は、私の秘書です」

 思わず足が止まる。その前にどんな話が交わされていたのかは分からない。

 聞こえたのは、その一言だけだった。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

(……社長)

 最近は距離を置かれ、視線も合わせてもらえず、嫌われたのだと思い込んでいた。

 それなのに役員たちの前で、社長ははっきりと「私の秘書」と言ってくれた。

 目頭が熱くなる。

 嬉しい。

 その一言だけで、張りつめていた心が少しだけほどけていく。

(……社長は、俺を見捨てていなかった)

 そう思っただけで、涙がこぼれそうになった。

 慌てて目元を拭い、誰にも気づかれないよう静かにその場を離れた。

 会議室のドアが閉まり、役員たちの姿が見えなくなる。

 井上は静かに智臣へ視線を向けた。

「……よろしかったのですか」

 智臣は書類を閉じ、淡々と答える。

「事実を話したまでだ」

「ですが、『私の秘書です』と、あそこまで明言されたのは初めてですね」

 智臣は一瞬だけ沈黙した。眼鏡の奥の視線が、閉じられたドアへ向けられる。

「二度と言わせるな」

 低く短い言葉だった。

 井上はその意味を理解し、小さく苦笑する。

「承知しました」

(社長……その一言が、一番効くんですよ)

 心の中でだけ呟き、井上も静かに会議室を後にした。

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